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1.旧石器時代~安土桃山時代

    
   現在資料収集中です。  新データーは随時、追記します。(右端に追記日を記入)
西暦 元号  内 容  内  訳 記 載 の 著 書  記載頁  追記日
旧石器時代  
 約14,000~18,000年前頃  浜北人の活躍
本州で唯一旧石器
  時代人骨と確認  
昭和36年4月27日岩水寺の石灰会社の採石場から旧石器時代の化石人骨を
発掘。20代女性のものと推測。現在、現地に詳しい説明の看板がある。
浜北人骨が旧石器時代人骨として確認された事は極めて貴重である。
本州では唯一の旧石器時代の化石人骨です。
郷土浜北のあゆみ
浜北市史資料編(原始中世)
 
27
615
 
縄文時代
 約1万年前頃 根堅に縄文人 中通遺跡(天浜線、岩水寺駅北付近)に居住跡を発掘。 中道遺跡現地説明会資料  
弥生時代 高根山遺跡 金刀比羅神社の北側付近一帯に古墳が存在していた。北側はゴルフ場であり、
南側は第二東名道路。年代は縄文時代から弥生時代そして古墳時代、さらに
平安・鎌倉時代までの長い年代の古墳や遺物が発掘された。
 
浜北市史資料編(原始中世)
浜北市史資料編(原始中世)
浜北市史資料編(原始中世)
 32
146
156
 紀元前8世紀頃~3世紀
古墳時代
 3世紀~7世紀  人形山古墳 大沢の北、東ノ谷池の東側の山(人形山)。第二東名の工事により、17基の
古墳が確認され、須恵器や鉄製品、小玉などが発掘された。
浜北市史資料編(原始中世)  138
飛鳥時代 
 飛鳥時代700年頃 藤原宮出土木簡 「・荒玉評赤□里・丈部古末呂」の表記あり
      荷札集成-61(木研5-82頁-(15)・奈良県『藤原宮』-55)
静岡県の地名
奈良文化研究所データベース
 
743 
 6世紀~7世紀  高根山古墳群 高根山から6~7世紀の古墳群と中世(約900年前)の墓127基が発掘された。 浜北市高根山古墳群
奈良時代  
奈良時代中期 東ノ谷瓦窯跡 東ノ谷一番池付近で瓦類や須恵器などが発見されている。  浜北市史資料編(原始中世)  336 
791  延暦 10  -   - 小野村の開発  平安時代の延暦10年から貞和14年頃の約50年の間に小野篁の長子、小野
俊生が小野村を開くとある。由緒として小野篁朝臣の長子俊生と申す御方この
里を切り開き此の所へ住居を定む。その後、小野篁朝臣は近江国にてご病死
あそばされ其の葬礼を此の地にて致し石塔を建つ。よって此の時、村名を小野
村とし字名を小野開土と伝えり、現今、小野海道とす。と伝えられている。
 
小野篁と遠州小野一族
天竜市史
 
 17
 
平安時代 
847  承和 14  -  -
852  仁寿  2  12  22 小野篁 52才の生涯を終焉す。 小野篁と遠州小野一族  23 
853  -  3     - 小野篁神社建立 小野俊生は、父の骨臓器を遠江国赤狭郷小野村に移して塚を造立し小野篁
神社を建立し、その一辺を小野垣内とした。とある。
小野篁と遠州小野一族   23 
907  延喜 7  -  - 多賀神社・小野村
(高根神社)の存在
延喜式に「麁玉郡四、並に小、於呂神社、柴本村に在り、多賀神社、小野村に
在り、長谷神社、堀谷に在り・・・」とある。多賀神社とは現在の高根神社である。
 
遠江風土記伝第4巻   179
938  承平 8  -  - 赤狭の存在  和名抄の麁玉郡の郷名で 三宅 碧田 覇田 赤狭(阿加佐)とある。   倭妙類聚抄巻第六巻国郡部
  第十二遠江国第七十八
 
鎌倉時代  
          西ノ谷古窯跡  西の谷池西側の山中から碗などの土器が発見されている。 浜北市史資料編(原始中世)  378
 1268  文永 5  -  - 鰐口の鋳物師 浜松の頭陀寺の鰐口の銘文に「鋳物師赤佐」と読めそうな部分がある。 浜北市史資料編(原始中世) 521 
 1275  建治    6  27 赤佐左衛門  京都六条八幡宮造営料として五貫を負担する。
この頃に「赤佐太郎」「赤佐三郎」「赤佐新左衛門」の名がみえる。
浜北市史資料編(原始中世)
引佐町資料第4集
 521
78
南北朝時代 
 1338  建武  5  -  - 赤狭郷の存在 南北朝からみえる郷名。「瑠璃山年録残編」裏書の建武5年の条に
「鐘鋳□上四拾貫文入畢、大工赤座郷孫三郎」とあるのが初見。
大福寺文書/県資料
大日本地名辞書
 
55
1340  暦応  3  8  24 赤座郷の鋳物師  瑠璃山年録残編裏書に赤座の鋳物師孫三郎が大福寺に40貫文寄進する。 浜北市史資料編(原始中世)  526
 1361  康安    2   - 遠江に大地震 2月4日夜戌刻(7~9時)、26日夜丑刻(1~3時)に大地震があった。 浜北市史資料編(原始中世)  528
1364  貞治  3 4  8 赤座の存在 この日の年紀のある鐘銘(霊山寺)によれば、遠江府中(沼津市)蓮光寺の
鐘は「大工赤座住道阿」によって鋳造されている。
静岡県の地名
浜北市史資料編(原始中世)
 
1064
530
1369 応安  2  11   - 遠州小野郷の存在 11月の日付のある大方等大集月蔵経の助縁者のなかに「遠州小野郷」の
各衆がみえる。
静岡県の地名
浜北市史資料編(原始中世)
 
1073
562
西暦 元号  内 容  内  訳 記 載 の 著 書  記載頁  追記日
室町時代 
 1394  応永  -  -  - 大宝寺開山  応永年間1,394年~1,427年尭室舜天大和尚が現在地付近に曹洞宗大澤山
大宝寺を創設する。その後、大宝寺を山麓より現在の本村に移転(年代不明)
大宝寺落慶記念誌 
 1452  享徳    -  - 赤佐方が年貢未進  遠江国蒲御厨(かばのみくりや)のこの年の年貢で赤佐方(郷または村)は
3貫700文のうち、1貫700文が未進(未納)とある。
浜北市史資料編(原始中世)  532
 1455  康正    -  - 年貢未進続く 年貢の未納が続き、この年には2貫余が未進(未納)とある。 浜北市史資料編(原始中世) 534 
 1474  文明  6 3  5 赤佐銘  厳阿弥陀仏らが遠州橋本(現 新居町)の教恩寺に寄進した梵鐘銘(正福寺蔵)
にも「大工藤原次守赤佐」とある。
静岡県の地名 1064
 1498  明応  7 8  25 遠江に大地震 この地震はかなり大きな地震らしく、浜名湖と遠州灘を区切っていた部分が
切れ(今切という)、浜名湖と遠州灘がつながった時の地震である。
 
浜北市史資料編(原始中世)  535 
 1502  文亀  2  3   - 高根神社建立 現在の社殿。総欅造りで足利時代の建築として価値ある建築物
高根山の山腹に建立。馬頭観音を安置し、2月初午に大祭が行われていたが、
馬頭観音は明治6年大宝寺に移され、観音堂は高根神社となっている。
(現在の天井は徳川時代の末期、金刀比羅神社の再建時代に手を加えた)
 
赤佐小学校百年の歩み
静岡県の地名
金刀比羅神社沿革誌
 
102
1073
20
 
   3  - 稲荷社再建  小野篁屋敷神社棟札調にの稲荷社が3月に再建されたとある。  小野家文書  54 2018.4.28 
1512 永正 9 5 1  戦国期に見える郷名 遠江国豊田郡のうち、今川氏親のものと推定される朱印状では覚園寺対して
「小野郷内大宝寺寺中并田地五段・年貢弐貫分」が安堵されている。
日本地名大辞典No22
浜北市史資料編(原始中世)
 
260
571
 
   5  1 今川氏親より朱印状  大宝寺ではこの年、今川氏親より朱印状「田地五反年貢弐貫文分先規」下付 浜北市の年中行事・文化財 120 
1528 大永  8  8  -  赤佐の鋳物師 引佐町正泉寺所蔵の鰐口銘は「大工赤康」と解読されているが実際に銘文を
みると「大工赤座」と読める。
浜北市史通史上巻
引佐町史上
673
650
 
1560 永禄 3 11 28 大宝寺領 この日、今川氏真が学園寺(高園)を通じて「赤狭郷大宝寺領 先判形之旨此外
伊井信濃守寄付之地」を安堵している。
 
静岡県の地名
「今川氏真判物」大宝寺文書
大宝寺落慶記念誌
 
1064
         -  小野村支配 この年まで、小野村は伊井信濃守直盛が支配していた。 尾野の歴史神社ものがたり 120
1561 4  2 7 山の神社再建  小野篁屋敷神社棟札調に記載。小野朝臣篁墓傍にあり、古来より祭礼すとある。  小野家文書  54 2018.4.29
1568   11   9 14 今川氏親より安堵 今川氏親が瀬戸方久に赤佐次郎左衛門名等を安堵。この時点で、赤狭郷を
苗字とする井伊氏庶流の赤佐氏が健在であった事が判明。
浜北市史資料編(原始中世)
浜北市史通史上巻
588
708
      12 26 家康から知行宛行状 戦功のあった家臣に与えられた知行宛行状に「・・をの・ミやくち・小松・・」とある 浜北市史通史上巻 734 
       8 3  徳川家康に替馬を  徳川家康が、二俣城へ御出馬の節、家康公の御乗馬が倒れたので、小野村
の治朗兵衛が自家の馬を差し上げた。と伝う。
小野篁と遠州小野一族  58 
1569   12 1  18 遠州赤虵 当日付の臨済寺領・天沢寺等書立士代(臨済寺文書)には「定光寺領指出」分
として「遠州赤虵之内古屋敷」とある。
浜北市史資料編(原始中世)
静岡県の地名 
574
1064
       8  -  徳川家康より安堵 前年、今川氏が安堵したものを徳川家康がそっくりそのまま安堵。 浜北市史資料編(原始中世)  594 
1572 元亀 3 12  3 武田信玄判物より 武田氏の遠江進行が本格する原器3年12月武田信玄が奥山大膳亮吉兼に遠江
進攻に対する戦功として「小野宮口并あかさ」からの300貫文を含め2,000貫文
を与えている。この頃、赤狭郷は久頭郷城(水窪)の城主、奥山大善の勢力下。
奥山文書 県資料4
浜北市史資料編(原始中世)
大日本知名辞書
 

595
55
 
西暦 元号  内 容  内  訳 記 載 の 著 書  記載頁  追記日
安土桃山時代
1587 天正 15 9   若宮八幡宮の御神札 金刀比羅神社寄せ宮で発見。奉建立 若宮社當一宇所・・・とある  尾野の歴史神社ものがたり  58
1590   18 12 26  大宝寺に朱印状 豊臣秀吉が、「赤之内大宝寺居屋敷5石8斗3升令諸役免除」と大宝寺は
虵の内に居屋敷5石8斗3升
が寄進され、諸役が免除された。
浜北市史通史上巻
浜北市の年中行事・文化財
 
784 
121
1592 文禄 12   金山大明神 金刀比羅神社寄せ宮で発見。願主 長畠一門 野中一門 大工 藤原・・・とある。 尾野の歴史神社ものがたり  37 
1594 3  -  - 馬頭観音を合祀  徳川家康乗馬の遺骸を高根山に埋め、馬頭観音として高根神社に合祀し、
繁栄を祈願した。
 と伝う。
小野篁と遠州小野一族  55 
1595 4 4  -  近藤家の支配地に  小野村は以前、浜松城主である徳川家康の知行地であったが、4月より近藤
石見守季用の知行地と成る。
 
小野篁と遠州小野一族  60
1601 慶長 6     - 浜松藩領 この時、小野村は浜松藩であった。 日本地名大辞典No22  260
12 28 小野村の年貢米 年貢米24石6斗8勺8才を納めた証文あり。 小野家乙号旧記書 1 2018.4.28
1602 7 11 24     年貢米24石5斗7升7合9勺を納めた証文あり。 小野家乙号旧記書類 2 2018.4.28
1603 8 5 11 小野の源右衛門 時の領主、近藤石見守季用は小野村の源右衛門方に代々伝わる重宝(勅書、
勅賜宝剣、家康から拝領の馬具・鞍など)を預かる。
とある。
引佐町史上
小野篁と遠州小野一族
 
697
59
 
  小野村→尾野村 慶長元年の頃より小野村は近藤家の支配地となったが、小野村が2ヵ所あり、
細江の小野村は井伊谷に近いから井小野村とし、当地は遠いので尾野村に改めた。
小野篁と遠州小野一族  59 
  大宝寺に朱印状  徳川家康より朱印状、以後歴代将軍より継目安堵状が下付される。  大宝寺落慶記念誌  
1607 12 3 15 東の谷池堤防落成 井伊谷の近藤岩見守秀用の家臣(?)堀官兵衛重俊が祝いに出席。尾野で3分の2を、
雲岩寺村が3分の1の水利権を持つ。
赤佐小学校百年のあゆみ  118
1610 14  -  - 幕府領 この時、尾野村は幕府領であった。 日本地名大辞典No22  260 
     -   -  - 金刀比羅神社存在  赤佐村村誌によれば慶長年間に再建されたことは棟札によりて明らかとあるが・・・ 浜名郡赤佐村誌 第四章 329 
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